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Franco et O.K. Jazz (1956-89)

Madilu Bialu System, vocal (1980- )
Aime Kiwakana Kiala, vocal (1980- )
Lomingo Alida, vocal (1988- )
Dizzy Mandjeku Lengo, guitar (1982- )
Gerry Dialungana Kassia, guitar (1976- )
Thierry Mantuika Kobi, guitar (1974- )
Monongi Mopia,'Petit Pierre', guitar (1976-78 & 1984-89)
Makabi Flavien Mingini, bass (1976- )
Didier Boluwe, drums/percussion (1983-84 )
'Rondot' Kawaka, Kasongo wa Kasongo, sax (1969- )
Mukula Muindila Muki, trumpet (1984-89)
Bilolo Mutshipayi, trumpet (1984-89)


Artist

LES CHAMPIONS DU ZAIRE

Title

HOMMAGE A FRANCO O.K. JAZZ


champions du zaire
Japanese Title

国内未発売

Date 1990?
Label OUT OF AFRICA / SONODISC ESPERA 36989/96 (FR)
CD Release ?
Rating ★★★☆
Availability


Review

 このサイトで紹介したコンゴ・ミュージックのすべてとはいわないまでも大多数が、フランスのレーベル、ソノディスク(倒産後は親会社となったネクスト・ミュージック)を通じて世界へ配給されていた。しかし、そのネクスト・ミュージックまでも倒産してしまった。これまで、なんのために苦労してフランコやO.K.ジャズのレコードをレビューしてきたのか考えるとやりきれない気持ちになる。
 
 メーカー品切れとか廃盤を気にしていては取り上げるアルバムがなくなってしまうので考慮の外といいながら、それでも入手が相当困難なアルバムについてはできるだけ除外するよう心がけてきたつもりだ。しかし、こうなった以上、封印を解いてもいいと思うようになった。

 その第1弾がシマロ率いるTPOKジャズのファースト・アルバム"HERITAGE DE LUAMBO FRANCO" であった。第2弾はジョスキーの"DANS CHANDRA" で、そして第3弾が本盤である。これら3枚は、フランコの死後に、シマロ、ジョスキー、マディルの、3人の大黒柱がそれぞれにTPOKジャズを率いて作った最初のリーダー・アルバムである。

 89年10月にキンシャサでおこなわれたフランコの葬儀に欠席して世論から叩かれたマディルだったが、ブリュッセルでTPOKジャズ滞欧組と“シャンピヨン・デュ・ザイール”を旗揚げすると、だれよりも早くフランコ追悼盤を世に送り出した。本盤である。TPOKジャズを名のらなかったのは、葬儀の席でフランコの実母から後継者に指名されたシマロを気遣ってのことであろう。だが、本音のところは「われこそフランコの衣鉢を継ぐ者なり」だったのか。

 しかし、おそらく経済的理由から90年中にマディルとジョスキーら滞欧組もシマロを旗頭とする新生TPOKジャズに合流。こうしてリリースされたアルバムが先の"HERITAGE DE LUAMBO FRANCO" であった。ところが、93年にシマロらTPOKジャズのメンバーとフランコの遺族の確執が浮上。ついにシマロらは“O.K.ジャズ”の屋号を捨て、94年から新バンド“バナOK”を名のるようになる。ひとりマディルのみ、フランコの遺族の意を受けて、TPOKジャズの再建に乗り出すも約半年で挫折。“マディル・マルチシステム” Madilu Multisysteme と改名して(“マディル・システム”も元はバンド名だったので、新バンド名なのか)事実上、ソロ活動にはいっていった。

 以上のことは別稿でもふれているので、これ以上は立ち入らない。ここでは、本盤の中味についてよりくわしく見ていくことにしよう。

 述べたとおり、本盤は実質的に欧州組TPOKジャズのアルバムである。そのせいか、全体にポップできらびやか、よりモダンな音づくりになっている。ミュージシャンはつぎのとおり。
 ヴォーカルは、マディルのほか、エメ・キワカナ、ロミンゴ・アリダの3人。エメはシマロのTPOKジャズのメイン・シンガーのひとりとして活躍するも、92年惜しくも物故。ロミンゴはあまり知られていないが、フランコ晩年の88年(86年とも)に加入したメンバー。シマロのTPOKジャズでは "SOMO!"『ヴェルヴェット・タッチ』(TAMARIS/SONODISC CD 91006/GRAND SAMURAI PGS-08D)でのみ参加が確認できる。あとで知ったことだが、かれはキンシャサのJBといわれたリタ・ベンボ Gaby Lita Bembo 率いる伝説のバンド、ストゥーカスのサブリーダーだった。

 つぎにギター。タブ・レイ・ロシュローのアフリザ出身で、フェスティヴァル・デ・マキザールやアフリカン・オール・スターズを経てO.K.ジャズ入りした鬼才ディジー・マンジェク、レ・グラン・マキザールの出身で、シマロのTPOKジャズとバナOKの中心メンバーとなるジェリー・ジャルンガナ、ザイコ革命のさきがけとなった新世代バンド、トゥ・ザイナの出身で、フランコのプレイ・スタイルを完璧にコピーできたチェリー・マントゥイカと、名手たちが一同に顔を揃えている。そのほか、かれらのギターにつかず離れずしながらリンガラ音楽特有のギター・アンサンブルを紡ぎ出す「縁の下の力持ち」的存在の“プチ・ピエール”ことモノンギ・モピア、ベースにはおなじみのマカビ・フラビアンが参加。

 また、フランコの秘書でもあったベテランのサックス奏者“ロンド”ことカソンゴ・ワ・カソンゴ、トランペットにムクル・ムキとビロロ・ムチパイのふたりが参加。そのほかに、シンセサイザーがロジェ・ピエロ Roger Pierrot、プログラミングがディディエ・ボルウェとある。ロジェがO.K.ジャズのメンバーだったか不明だが、ディディエについては、83年から84年の2年間、ドラムスまたはパーカッションとしてO.K.ジャズに在籍したとされる。

 そうなのだ。本盤ではドラムスやパーカッションがいっさい使われず、すべて打ちこみで代用されている。そのため、音抜けがよくハデだがビートにうねりが感じられず平坦さは拭いがたい。しかし、(ナイジェリアの“フジ”がそうだが)テクノロジーを使ったほうがオシャレでモダンと思っていたにちがいなく、アフリカの音楽にあってはこの点を大目に見てやるしかない。

 ところで、マディル・システムといえば自意識のかたまりのようなイメージがあるが、意外にも本盤では存在感がそれほど突出していない。シンガーとしてのマディルの醍醐味は、ゆったりとしたテンポに乗せて朗々と歌いあげていくところにあると思うのだが、本盤はアップテンポでダンサブルな楽曲でしめられ、マディルの声の必然性がさほど感じられない。

 本盤は全6曲から構成され、いずれの曲も演奏時間は7分前後と10分以上がめずらしくないリンガラ音楽にしてはコンパクト。これらはキワカナ、ロミンゴ、マンジェク、ジャルンガナ、チェリー、ロンドが1曲ずつ持ち寄ったものでマディル本人の楽曲はない。デジタル・テクノロジーを前面に押し出したサウンド・プロダクトは、カッサブに代表されるフレンチ・カリビアン音楽ズークをあきらかに意識したもの(チェリーの楽曲のタイトルはそのものズバリ'BINA MOMI LA ZOUK' )。

 このようにおよそマディルらしからぬ、どころか名門O.K.ジャズにふさわしからぬ(だから“シャンピヨン・デュ・ザイール”なのか)音楽性の背後には、マディルではなくミュージカル・ディレクターの意向が強く働いていたのではないか。そのミュージカル・ディレクターこそ、ディジー・マンジェクだったとみる。

 マンジェクは、78年にコート・ジヴォアールの貿易港アビジャンでサム・マングワナやロカッサ・ヤ・ムボンゴらとアフリカン・オール・スターズを結成している。かれらは、非リンガラ語圏のひとたちにも受け容れられるようにと、“リンガラ音楽”の決めごと(たとえばルンバ・パートとセベン・パートの2部構成)を取っ払ってポップでシンプルなダンス音楽に仕立て直した。

 その後、マングワナは、マンジェクと別れてパリへ進出。アフリカン・オール・スターズで身につけたインターナショナルな方向性をさらに推し進めて成功を収めた。いわゆる「パリ・リンガラ」のはじまりである。82年、マンジェクはマングワナと再会しアフリカン・オール・スターズを再結成。マングワナがフランス語を交えて歌った'AFFAIRE VIDEO' はかれらの代表曲となった(SAM MANGWANA ET L'AFRICAN ALL STARS 1980/1984 (NGOYARTO NGO71) 収録)。

 グレーム・エウェンズの著書'CONGO COLOSSUS'巻末の資料によると、マンジェクがO.K.ジャズに加入したのは82年とあるが、83年にマングワナとモザンビークへツアーしたことが確認できているので、O.K.ジャズのパーマネントなメンバーだったと考えるべきではないと思う。つまり、O.K.ジャズに完全に同化していたのではなく、O.K.ジャズとは一定の距離を保ちながら、保守化へ向かうO.K.ジャズに刺激を与えるカンフル剤の役割を果たしていたのではないか。

 事実、本盤に収録されるマンジェクの作品'C'EST TROP TARD MON AMOUR' では英語、フランス語、リンガラ語が飛び交い、こんな具合にO.K.ジャズというより、インターナショナルなアフロ・ポップを志向したサム・マングワナの隣りに立っている。とはいっても、O.K.ジャズの十八番であった複雑に折り重なるギター・アンサンブル、荘重華麗なコーラス・ワークは健在。

 そういう意味では、フランコのラスト・レコーディングといわれる88年末から89年はじめにかけての、マングワナと協同でおこなったセッション(とくにマングワナのイニシアチブで作られた"FOR EVER"(SYLLART/MELODIE 38775-2) 収録曲)を連想したくなる(マンジェクはおそらくTPOKジャズの一員として参加)。
 両者はたしかに似たところがあるが、あちらがフランコとマングワナという「個」を浮き立たせることに眼目を置いていたのに対し、こちらはもっと集合的で祝祭的なムードにあふれかえっていて、むしろシマロとTPOKジャズのセカンド・アルバム"MABY...TONTON ZALA SERIEUX" 『全能』(SANS FRONTIERES/GRFRACO SF007/GRAND SAMURAI PGS-07D)に近い。

 みんなそれなりにいい。しかし、とび抜けたナンバーもない。これこそまさにバンドの性格をいい当てている。“シャンピヨン・デュ・ザイール”は、マディルの強烈な個性とリーダーシップによってまとめられたグループではなくて、メンバーの暗黙の了解によってリーダーに推されたマディルを中心とする同志的結びつきによる分権型グループだったのではないか。
 フランコという絶対的なボスの圧力から解放されたことで、メンバーらはリベラルな空気を満喫していたにちがいなく、そんな気分が音楽性によくあらわれているにしても、こうした形態がマディルの本意だったとは考えにくいし、そういう意味で“シャンピヨン・デュ・ザイール”ははじまりから短命が約束されていたように思う。



(7.10.05)



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by Tatsushi Tsukahara